雑感(限界を知る!)-つれづれなるままに税理士 Vol.11-
久しぶりの投稿となります。個人確定申告と3月決算法人の5月申告の狭間で少し時間ができました!
先日、Netニュースで学校教育の中で、ダンスが授業に取り入れられており、それができない生徒がトラウマ級の辱めを受けることになり、これが【公開処刑】だというNetニュースを読みました。
体育だけなのでしょうか?数学で数式がわからなかったり、国語で漢字が書けなかったり、これらも授業中、できなくて人前で恥ずかしいからしなくていいのでしょうか?それを大人がみて恥ずかしいそうだから過保護に取り除くことが教育で、その子のためになるのでしょうか?
残念ながら各人に能力の多寡が存在するのは紛れもない事実。努力すれば克服することができること、努力するけども到達することができないことが世の中にはあることを理解することも教育の一環ではないかと思います。大人になっても【私はやればできる、ただやらないだけ】といっている人を多く見受けますが、こういう人はきっと自分の限界を知らない人で、目標にむかう努力をしてこなかった人だなと思います。もちろん恥ずかしい思いをさせられてイジメにつながるのは絶対ダメだとは思いますが、できなくて恥ずかしい思いをする環境自体が悪いわけではないのかなと思います。
とはいうのも私自身、体育では何とか恥ずかしい思いはしなかったですが、国語、数学、理科、社会etcなどの授業では恥をかきっぱなしでした。でもおかげで自分の限界もわかっていますし、手を抜いたら痛い目にあうこともわかっております。
このニュースを見ていること、教育現場がこのよう状態ならこれからの子は優しくていい子が多いんだろうとは思います。しかし、土壇場で勝ち切ることができる子は少なくなるだろうなと個人的に思いました。
平等とは、同じ年、同じ性別、同じ身体、同じ能力の人たちを同じように扱うことであって、年も違えば、性別も能力も違う人たちを同じように扱うのは一見平等に見えますが、決して平等ではなく、むしろ不平等です。
人と違うことを恐れず、自分の限界を知り、ときに限界を打ち破る努力ができる人が良い人生を歩むことができると私は思っています。
私も身体を壊さない程度に限界に挑戦したいと思います。